福島県相馬地方が誇る、1000年のつづく歴史ある伝統祭事がはじまります。
今年の相馬野馬追は、7月24日から27日まで相馬地区の中村神社・市内・雲雀ケ原等で行われます。
その昔、相馬地方の隣国には誰もが知っていいる伊達政宗がいました。勢力は10倍以上でした。しかし、この東北追一の勢力ある伊達藩といえども、この相馬地方だけは関わることができませんでした。それは、相馬武士がいたからです。相馬武士は勢力を補いうため、農民といえども事が起きれば戦える準備をしていたと言われています。相馬野馬追は、祭事であると同時に、軍事訓練だったのです。
相馬野馬追
一千年有余の歴史を誇る相馬野馬追を語るには、その背景をなす相馬の武士道に触れなければならない。
相馬藩は、藩政時代には、藩の役所のあった中村(現在の福島県相馬市)の名をとって中村藩と呼ばれていた。
中村藩主の相馬氏の起こりは非常に古く、『相馬系図』によれば相馬小次郎平将門を祖とし、下総(南関東)を本拠としていた。将門から12代目に当る相馬師常は、同族の千葉氏より出て相馬氏を継ぎ、奥州相馬の初代となった。
相馬は、藩政時代には、禄高6万石の小藩で、隣に10倍に余る大藩の伊達氏があり、けっして安閑としてはいられなかった。いつ何時攻められるかわからないので、常に武器を傍らに置いて働き、敵が攻めて来ると聞けば、一同妙見社に集り、御神水を飲んで結束を固くすると同時に、小藩なのでとても武力でかなう訳がないので、日頃、学問から礼儀作法にいたるまで、きめ細かな精神的しつけを怠らず、緊張感を持続し、武士道精神をさかんにすることに全力を注いだのである。
一方、武具の充実と武術の鍛錬を怠ることが出来ない相馬にとって、野馬追行事は、幕府の厳しい監視の目を逃れる格好のかくれ蓑として、武術の訓練を図る場となったのである。
相馬の武士道の源は、すでに戦国時代の顕胤(あきたね)などに現れている。伝記に、天資英邁、至行端正、特に信義に厚く、妻の父に当る伊達稙宗(たねむね)のために、稙宗の子晴宗と度々戦を交えたのも信義のためであった。ある時阿武隈川を挟んで対戦し、多くの戦死者を出した時、敵味方塚をつくって一緒に葬ったことは、敵方に感動を与え、語り草になっている。
幕末になって相馬は、天明、天保の大飢饉により大打撃を受けたが、相馬を救ってくれたのは、二宮尊徳の「與国安民法」(相馬では御仕法と呼んでいる)であった。その基礎は、至誠・推譲・分度・勤労という四つの徳目におき、徳を持って徳に報いるという報徳精神であった。
このように、古くは武士道精神、新しくは報徳精神という二大指導精神が相馬を支えてきたもので「相馬は東国の君子国」と言われる所以である
出典:相馬武士
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相馬野馬追
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サムライガール~相馬野馬追